やいとの記憶から考える体罰

近々小中学校で道徳が教科化されるのだという。

背景はいじめと自殺であろう。これらの問題に対して年長者はそれぞれの人生経験から一家言を持っている。だが多くの人がそれを胸に収納して公には開かない。

その最大の理由は体罰の肯定になるからである。いじめや自殺をなんとかしたい,しかし体罰を公には肯定できないというジレンマが口を閉ざさせる。先に音楽家の日野皓正さんが中学生にビンタをしたというニュースが異様に注目されたように,体罰に対する魔女狩りが続いている。そんな中で体罰に良い意味があることを信念とする人でもなかなか口を開けない。ただ自由な討論ができるネットではむしろ肯定派の方に力がある。多くの人が体罰にはプラスの意味があると感じながら公には口にできないでいる。

私は体罰肯定派である。勘違いしてもらっては困るが,積極的に体罰を行おうというのではない,体罰が必要なタイミングは間違いなくあって,時宜を逃さず適切に用いるべきということだ。ただし現状において体罰は自分の子供らに対してに限る。体罰が意味を正しく理解している人間以外に体罰の権利を預けることはできない。

今ヨモギ花粉症のシーズンである。写真のようなヨモギをみるたびに幼少期の思い出がよぎり掌が汗で湿ってくる。「やいと」と聞いてすぐに反応する人は東日本には少ないのではないだろうか。西日本地区に住んでいる40代以降の男子なら記憶に刻みついているだろう。私は6才まで京都府に住んでいた。悪さをした子供には「やいと」つまりお灸がすえられた。頭や尻が叩かれるようなことも茶飯事ではあったが,とりわけ反道徳的・反社会的とみなされた悪戯には「やいと」の刑が言い渡された。これはきつい体罰だった。うつ伏せに取り押さえられて,パンツをおろされて尻が丸出し,そこに艾(もぐさ)がのせられて線香で着火,その熱さによる阿鼻叫喚(あびきょうかん)の世界はその後の不心得行動の抑止力において絶大な効果を発揮した。「やいと据えるぞ!!」の一言で子供らは震え上がった。私の尻には未だにその灸痕が残っている。

やいとはおそらく数世紀に及ぶ歴史的体罰である。ではこのご時世では西日本でも全滅しているのではなかろうか。

体罰はおそらく2〜7歳頃に行って最大の効果を発揮する。その力とはトラウマの持つ正のフォースである。子供はある程度の年齢にならないと危険と安全,善悪,道徳の概念が分からない。口では分からない。それを苦痛による副腎皮質刺激ホルモンの力を借りて記憶へと刻みつける。その知恵は人類の歴史数万年に及んで力を発揮したが,わずかここ数十年でそれが否定されてしまった。最新の道徳が最高の高みにあるという人類の傲慢さを感じるのは私だけだろうか。