なぜ高齢者の話を聞きたくなるのか

私ほどの年令になると高齢者の話を聞きたくなる人が増えるようである。

高齢者の話が歴史的に貴重であることには間違いないが,聞きたくなる衝動はそんなこととは無関係であろう。なぜ聞きたくなるのか最近思うことがあったので書かせていただく。

多少話を迂回させていただく。

つい先日大学の同期会に参席した。

30年の歳月を経て若木が大木となった大学の構内を歩いた。30年前のことがまるでつい昨日のことのように瞼裏に映し出された。大学北口の解剖学実習の薬品臭,くたびれたビーチサンダルを通して足裏に感じるボコボコした赤レンガ歩道,学生寮の玄関をくぐり,エコー感を伴う大ラウンジの喧騒,大理石ベンチの冷たさ,メールボックスの什器臭,寮食堂に連なる廊下の床シートの青白い反射,勉学部分の記憶が希薄な理由は推して知るべしだが個々の記憶の色彩は全く褪せていない。

若い頃は,老人は色褪せた茫洋(ぼうよう)とした記憶の中を彷徨していると思いがちだが,それが誤りであることにある年齢になると気がつく。いま眼前で起こっているような色彩感と立体感をもった清明な記憶の中に彼らはいるのだと確信できるようになる。それは自分自身が老いることで初めて分かる。記憶の鮮明さ,それは経過時間の関数ではない。いつ経験したか,それが鮮明さを決める。もっとも鮮明な記憶はおそらく10~20代のものだろう。30才時における青少年期の記憶は,その質と量において50才時におけるそれと大差なく,おそらく70才に及んでも大差ない。

数十年前の記憶がいかに高い解像度を維持し続けるかを知れば,高齢者の昔話は俄然鮮烈さを帯びて興味を掻き立ててくる。いま目の前で,やや興奮気味に瞳孔を広げながら昔話を語る老女の昔話は,曖昧な記憶の破片をかろうじて縫合した弊衣などではなく,記憶のスクリーンに高い彩度と解像度で投影された綾羅錦繍(りょうらきんしゅう)の4Kノンフィクション映画である。そうなれば先を先をと聞きたくなるのは自然であろう。

10~20代の記憶に比較して,30代以降の記憶は相当に希薄である。この記憶の希薄感と同期して増していく時間の短縮感(あっという間に年月が過ぎる)というのは,おそらく何らかの関係があるのだろう。